お客様やご家族に合ったお墓かどうかが大切だと考えています。
どんなお墓を建てるのか、何が必要でどれだけ満たされていれば良いかをご家族や親族と十分に話し合い、意見をまとめてお墓を建てることが円満なお墓づくりと言えます。
大きさやデザインなど、墓地を選ぶと同時に制約ができてしまうケースがあります。
場所を決めて、いざ墓石づくりとなった時に、実は希望にかなう墓石が建てられないとならないよう、どんな墓石にしたいか、かたちや色をイメージしておくと理想的なお墓づくりができます。
取り扱われている墓地のタイプは運営会社や霊園により様々です。
お花で飾れるタイプが良い、ペットも一緒に埋葬できたら良い、希望がある場合はそれも考慮して選ぶと具体的な絞り込みができます。
お墓を建てたあとはお墓参りのために足を運ぶことになります。
どのような手段でお墓参りをするのか、また、その頻度を想定して場所を選ぶことも大切です。
区画の陽当たりや水はけの状態、周辺は心静かにお参りができる環境や景観であるかどうかも、墓地を選ぶ際の大切な要素です。
海の近く、山が見えるなど、ロケーションにこだわってみるのも選び方のひとつです。
手厚い供養をしてくれるお寺が良いのか、施設が整った公園墓地が良いのか、市区町村が運営する霊園が良いのか、墓地はその形態によりそれぞれ特徴があります。
公営霊園や民間霊園のほとんどが宗旨・宗派に条件はありませんが、寺院墓地を求める場合はそのお寺の宗派とあっているかを確認しておく必要があります。
お墓は、購入する際にかかる永代使用料、墓石工事代の他に、墓地内の維持管理のために継続的に管理費がかかります。
毎年決まった金額を納めることになりますので、どのくらいが許容範囲か検討してみましょう。
管理事務所はどのようなことをサポートしてくれるか、法要施設・駐車場・休憩室などの施設はどのようなものがあるか、バリアフリーへの配慮はされているかなど将来も安心して快適にお墓参りができる設備が整っているかも大切なポイントです。
お墓のことならまずはお気軽にかけひ石材店にお問い合わせください。
その際には、様々な質問や疑問、お墓を建てるにあたっての不安をお気軽にお話しください。
経験豊富なスタッフが丁寧にお応えします。
「お墓を建てよう」と思ったら、墓地や霊園の場所、お墓のデザイン等、大まかな構想を家族と話し合っておくことがおすすめです。
お墓はひとりでは守れません。大まかな話をまとめておくとスムーズです。
墓地探しもサポートし、ご要望に合った墓地を一緒にお探しします。
現地を確認して土地(場所や土壌)の状態を調査します。お墓は非常に重量のあるものなので、基礎がしっかりしていないと、お墓が傾いたり、水はけが悪くなったりする原因となります。
墓地が決まったら、いよいよお墓づくりに取りかかります。
お客様の意向をしっかり受けとめ、ご予算、使用したい石材やデザインといった、たたき台となる完成図面と、詳細を記載した見積書を提示いたします。
ご予算と合わせてご検討ください。
図面や見積書にご納得いただけましたら、いよいよご契約となります。
打ち合わせをした内容を契約書に明記して、お渡しします。文字や家紋、支払方法などお間違いがないか、再度、契約時にお確かめください。
お墓に彫る文字を決めます。文字内容のほか、楷書体や行書体など書体によって、お墓のデザインも変わって見えますので、納得がゆくまで打ち合わせを行います。
かけひ石材店では、原寸サイズの紙に印刷してお見せしますので、イメージがしやすいと思います。
家の建築と同じで、お墓の基礎工事は非常に重要です。鉄筋を組んだ基礎コンクリートを打ち、何トンにもなるお墓の重量に耐えられる基礎土台を造ります。
墓地の立地や地盤によっては、複雑な基礎工事も必要になりますが、
かけひ石材店では基礎工事においても豊富な経験と実績も有しており、自社一貫対応にて施工をおこなうので安心してお任せください。
礎工事が完了しましたら、墓石の据付けを行います。
近年、懸念される災害による倒壊を防ぐために、耐震性能に優れた専用のボンドやコーキングを使用しています。
ご希望によっては、さらに強度を誇る耐震工法での施工も可能です。
お墓が完成しましたら、お客様立ち合いのもと、仕上がりを確認していただきます。
文字や家紋など間違いがなければ、お引渡しとなります
お墓が完成したら、ご家族やご親族などが集まって開眼供養を行います。僧侶に開眼供養の読経をお願いし、新しいお墓に魂を入れてもらった後に、納骨となります。
かけひ石材店では納骨のお手伝いも行いますので、わからないことがありましたら、何でもご相談いただければと思います。
年忌やお盆、お彼岸という行事をとおして、私たち日本人は亡くなった人を悼みつつ、自分の生き方を振り返る習慣を身につけてきました。
これはだれに強制されるのでもなく、親から子へ代々 受け継がれてきた伝統的な精神文化です。
かつて西洋人は、日本人特有の礼節や謙譲の美徳を称賛したものですが、その美徳は供養の心に根ざしているといってもまちがいないでしょう。
「お墓とは何か」お墓についてまとめた七つの定義をお話したいと思います。もちろん、お墓とはこうあるべきだと決めつけるものではありません。
みなさん一人ひとりが自分の考えを持っていいですし、 お墓とは何だろうと自分で考えることが大事なのです。
そのための手がかりとして、お話ししてみましょう。
【定義一】 お墓とは死者の遺骨(遺骸)を納め、死者を供養し祀るところ |
お墓について最も一般的なイメージがこれでしょう。現在の日本では土葬はほとんどなく、亡くなった人はみな火葬にされます。お墓にはカロートなどの納骨室が備えられ、そこに遺骨を納めることが「お墓であること」の基本になっています。 ただ、外地で亡くなった戦争犠牲者のように遺骨がない場合もあります。そのような死者でもお墓はつくられ、遺骨の代わりに遺品などが納められます。 日本の伝統的な墓制では「両墓制」といって、死者の埋葬地とお参りするお墓が異なっているかたちもありました。これを「埋め墓」と「詣り墓」と呼び、「埋め墓」にはあまりお参りしませんでした。 一方、「詣り墓」には遺骨がありませんから、遺骨(遺骸)があることが、必ずしもお墓の基本条件ではない場合もあります。 むしろ、定義の後半「死者を供養し祀るところ」という考えが大切だと考えるべきでしょう。 |
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【定義二】 お墓とはひとつの家族系譜の死者への思いを継承して供養祭祀するところ |
先の定義が一人の個人の死者を念頭においたものとすれば、これはお墓を世代から世代へと継承される供養・祭祀と考えるものです。 伝統的な考え方からすれば、このようなお墓は「家墓」にあたります。複数の墓碑を建てられるような空間を持った「家墓所」では、「先祖供養碑」と個々の「個人墓」「夫婦墓」が建てられることもあります。 「墓所」が狭くて墓碑一つでいっぱいの場合には、「家墓」すなわち「墓碑」(総墓・ 合祀墓)となります。現代の普通のお墓では、こちらのほうがはるかに多く、一般的なお墓の代表となっています。 墓碑ひとつの墓所では、10前後のお骨が収容できるようになっています。核家族化した家族系譜では、この程度の余裕があれば十分とみられます。 ちなみに関西では、納骨のさいに「のど仏」だけを骨壷に納めるところもあり、一般に関東は大きい骨壺が使われ関西は関東より小さい骨壺が使われています。また、豊橋市では骨壺は小さいので、納骨スペースもそれほど大きくありません。 また、カロートの床が土になっていて、世代が遠くなった先祖の遺骨は土に撒く習わしも残っています。これは、お骨は土 (大地)にかえるという宗教的考えがあるからです。 ひとつの家族がその墓所を守り受け継いでいく「家墓」の考え方は、個人の死が家族という血縁の世代的な連なり(系譜)のなかに入り込んで供養され祀られていくことを意味します。つまり「家墓」は、ひとつの家族の歴史と心のつながりを保証する象徴的な場所ということもできます。 「家墓」のこれまでの考え方は、その家を継承する直系の子孫だけに承継されるというもので、これは、そのお墓に縁のある家族がいくつもの家族に増えてしまい、差し障りが生じるのを防ぐためだとされています。 しかし、少子化したうえ男女平等の夫婦観のつよくなった現代の核家族のもとでは、「家のお墓」という考え方はしだいに弱まってきました。 家のお墓などとあんまり考えず、自分にとって一番近しい家族である親のお墓をつくったり、あるいは自分たち夫婦のお墓を前もってつくっておき、あとの継承は子供たちに任さる、そういった考え方がしだいにつよくなってきました。 姓を継ぐ子供がいない場合には、夫婦して夫の親の家墓に入れてもらうか、あるいは夫婦それぞれに実家の家墓に入れてもらう、また夫婦して永代供養の契約をした墓所を購入して入る、そういった手立てが求められます。 とくに最近では、独身のまま生涯をすごす人もしだいに増えてきた結果、個人が自分のお墓をどのようにつくり、その承継をどうするかが、これからはますます切実な課題となりつつあります。そのような課題を解決する手立てのひとつが、「永代供養」ですが、これにもさまざまなかたちがあります。 一般的には、一定期間(たとえば 30~50年間)はそのお墓が維持され、以後は改装されて共同の葬所に移されて供養されるといったかたちがとられています。 このように家族に承継者がみつからない場合の「承継」は、お墓の管理維持と供養・祭祀を霊園・寺院に受諾してもらう「委託による一代のみの承継」ともみることができます。豊橋市ではこういったところはないと思います。寺院でもこういった考えがあってもいいと思います。 家族以外に承継者を求めるお墓のかたちは、これ以外にも昔からありました。キリスト教徒のような宗教団体では、公営霊園の一角などに大きな納骨堂や壁墓地を設け、信徒の遺骨(遺骸)をそこに収納し祀っています。 壁墓地では一人ひとりが個別に収納されそこにホーリー・ネームが記されますが、納骨堂形式では外部からは金属などに記された銘板しか見えません。ここでは教会が「ひとつの家」であり、「家族の家」よりも「教会の家」のほうが、大きな承継の理念を引き継いでいることになります。 最近では少子化の影響でこの形式と同様の寺院の納骨堂が多数できています。これもまた、宗教集団の「宗教の家」・「檀信徒の家」となります。 また、独身を通してしまった女性たちが、共同して葬所を設けた京都の「志縁廟」のように、志を同じくした人たちが同じお墓に入り、「友愛」を共にする人たちにその「承継」を求めるような例もあります。 このように「家墓」とは対極的なかたちとして、ひとつの宗教の理念、あるいはひとつの共同の理念と友愛を持つ団体が「共同の墓所」を承継していくかたちがあることがわかります。 そこで、第二の定義はもう少し拡げて、つぎの第三の定義におきかえることができます。 |
【定義三】 お墓とは、死者の想いと死者への想いが承継によって結ばれた信愛と祈りの場 |
この定義では、「家墓」の承継とともに、家墓の対極にある「宗教の家」や「友愛の家」による承継をも包みこむことができます。 ここで「承継」とは、個人が自己の死にさいして、自己の死を超えて「預け渡される何か」があると信じ、生き残った近しい家族や友人もまた「自分に引き渡される何か」があると信じているときにはじめて成立するものということができます。 「預け渡されるもの」「引き受けられるもの」は、人それぞれによってさまざまです。家墓では「先祖の霊」といってもよいし、また、「先祖からの血筋」ということもできます。宗教の家では、その教団が信ずる神・仏や、神仏への信愛によって生まれた霊魂のやすらぎであり、友愛の家ではともに信ずる理念の下で友愛を受け渡すことだったりします。 こうして受け渡すものをひっくるめて、もし「霊(魂)」という事ができるとすれば、お墓とは何かについて、もうひとつの定義を認めることができるでしょう。 |
【定義四】 お墓とは死者の霊(魂)を祀るところ、生者が死者の霊(魂)と交感する場 |
「人間は死ねば死にきりであって、死後の世界などあるはずがない。霊などというものが実在するはずがない」と考える人もいます。一方、「そんなことはない。死後の世界はたしかにある。人間は霊となって死後の世界におもむく。霊のなかで魄はお墓にとどまる。お盆やお彼岸などの祖先 祭には、魂はこの世に戻ってくる」と信じている人もいます。 いうまでもなくお墓の伝統的な祀りでは、後者の考えを信じていることが土台になっています。しかし、前者の考え方をふくめても、死者の霊(魂魄)が存在するという言い方をしてもよいのではないでしょうか。また、死者に霊(魂魄)があれば、生者にも霊(魂魄)があるということもできます。 このように拡張して理解された「霊」とは、「一人の固有の個体としての自己が、その死によっても失わないとおもいつめている何か」であると考えたいと思います。そのようなものがあるのか、ないのか。それを考えることもふくめて、それはたしかに「存在している」のです。私たちはその ような「何か」を自分の死から解き放ち他のだれかに預け渡したい、引き渡したいと願っているの ではないでしょうか。 そこに、霊とか霊魂とか、魂魄といったものがあると私は考えています。そしてお墓こそは、そのような霊が顕在し、安らぎ、預け渡される場所として理解されてきたのだと思います。 魂魄とは、儒教の考えで、魂は精神で魄は肉体で人間は形成されており、人間が亡くなると、魂は肉体から離れて天に上がり、肉体の塊は地に帰るといわれています。 |
【定義五】 お墓とは、あの世の「終の住みか」 |
この定義もよくいわれる言葉です。最近、「夫の家のお墓に入るのは嫌だ」という女性の方が増えています。「夫や子供たちとお墓をともにするのはわかる」けれども、夫の親や、さらには会ったこともない夫の祖先と同じお墓に入るのは嫌だという考えです。 このような女性にとってお墓とは、夫や子供たちと共に過ごした「家庭」や「住まい」と同じもの、生前の、「住まい」から死後の「住まい」へと連続してとらえられているもの、と思います。この世の住まいで一緒に過ごした家族は、「あの世の住まい=お墓」でも一緒に過ごせることが感 性として一番ぴったりとしていると言い表しているものといえましょう。 男の言い分では「じかに知らない祖先が少しくらい一緒にいたっていいじゃないかどうせあの世のことなんだから」となるのかもしれませんが、女性にとっての「自分にぴったりとした家族の感覚」からは、「この世の住まい」のすっきりした輪郭と、「あの世の住まい」のすっきりした輪郭は、 ぴったりと合致していなければならないのかもしれません。そう考えると、なるほどと思えてきます。 このように、現代の日本人の感覚のなかにも、あの世の存在や、あの世の住まい、終の住みかとしてのお墓の存在が、はっきりとした実感として生きていることがうかがわれます。これは、お墓を霊魂の宿る場所と考える第四の定義とも深く関わっています。そこには霊魂という言葉は出てき ませんが、霊魂よりもっと実感的な希求の感覚が持続しているのではないでしょうか。 「家族の愛と親和の感覚」が、どこまでも続いてほしいという希求がはっきりと表されています。お墓は、まず亡くなった家族とこの世の家族とがともに交わり過ごす場所となりますが、やがては家族みんなが死んでしまうでしょう。 そのときは、「終の住みか」であるお墓が、家族みんなの共に過ごす場所になるわけです。 こうしてみると、伝統の家墓の考え方も、最近の女性が考えている思いと、まったく同じ実感から始まっていることに相違はないはずです。それにもかかわらず、「夫の親たちと終の住みかまで一緒に暮らしたくない」というのは、矛盾をはらんだ感じ方ともいえます たとえばある家族が、夫の家墓に入りたくないという理由で、新しいお墓を建立したとします。創設者である夫婦は、子供たちすべてがそのお墓を終の住みかとすることを望むでしょう。しかし、子供たちが新しい家庭を持てば、新しく家族の一員となった女性は、その家の親のお墓に共に入り たいとは思はないかもしれません。少なくとも、女親が忌避したことを、子供の嫁に強制することはできないはずです。 この矛盾は、現代の家族が自分以前の親の系譜には忌避の感情を抱え込み、子供たちに対してはいつも新しい系譜の創設者でありたいという生存の感覚を抱き続けるようになってきたことを示唆しているのでしょう。 |
【定義六】 お墓とは、個人の生涯を記念するモニュメント |
この定義は「自分が生きてきたことの証」をモニュメントとして残したい、それがお墓だというものです。これは伝統的な家の観念よりは、核家族の生きかたを個性的に表現したいという時代の感覚に合致したお墓の定義といえるでしょう。 故人の生涯を記念するものはお墓に限りませんが、第一の定義と合わせることで、故人がそこに埋葬されて安らかに眠り、その故人の生前の姿が最もよく表現されたお墓の形ができれば、すばらしいに違いありません。ですから、この定義には故人の個性を表現するような「お墓の形(造形)」がふくまれているともいえます。これは他の定義にはない特徴です。 少し以前には考えれなかったようなモニュメントとしてのお墓が建っています。今後、その傾向が増えていくと思いますので、少し詳しく、第二~第五の定義との関係についても考えてみましょう。 まず第二の定義との関係です。複数の墓碑を建てられる「家の墓所」では個人墓や夫婦墓をある程度自由に建てることができます。しかし、一つの墓碑だけ親からその子供、孫と承継されていくお墓では、一人の故人の個性というだけではない家族墓としての「お墓の形」との適切な融合が求められるでしょう。どちらかといえば、新しい家族墓を創設した家族(具体的に言えば、家墓の承 継者となった家族ではなく、分家した子供の家族や、先祖のお墓を改葬する必要にせまられた家族) が、お墓の形をつくりだそうとするときに、故人の個性や固有さをもりこんだお墓をつくりやすい、といえます。 つぎに、「個人の想いと故人のへの想いが出会う場所としてのお墓」という第三の定義は、お墓に故人の個性を求める第六の定義とうまく融合します。 たとえば生前にお墓を建てる「寿陵」において、その人が自分の生涯にふさわしいようなお墓の形を選んだとします。そのとき一番大切なことは、それを受けとめてくれる子供たちが、いかにもふさわしいお墓だと納得してくれることではないでしょうか。その人が亡くなったのち、故人への想いを深くするのにぴったりのお墓の形だったならば、そのお墓のオリジナルな形は、その家にと ってのオリジナルな形の継承(伝承)となって生き続けることでしょう。「なんと個性的で固有なお はかをつくった先祖がいたものだ」と。 では、第四の定義との関係はどうでしょうか。「先祖の霊、近親の霊が安まるところ」としてのお墓からすれば、故人の生涯をあらわすような個性をお墓に求めることは、対極に位置する考え方といえるかもしれません。「霊が安まる」には、それにふさわしい宗教的な形の規範が求められるともいえるからです。 しかし、「故人がその死によっても失わない何か」「死を超えて個人から個人に受け渡されるもの」 を「霊」とみなす場合には、「霊」と「生涯の記念」とのあいだに橋渡しされるものがあります。個人(故人)の生涯の記念とは、「その個人にとって欠かすことのできない何か」であるはずですし、「霊」もまた「その個人が死によっても失わない何か」なのですから。そこには「欠かすことので きない」という共通の想いがあります。この二つの想いは決して一致しませんが、二つの方向にふ くらみながら、共通した根っこを持っているともいえるでしょう。 個人(故人)の生涯の記念(祈念)ということを、個性の根っこにある普遍的な人間性(あるいは人間個性の条件)にまで追いつめていくと、故人がその死によっても失わない霊的なものと個性とは、しだいに合致したものとなるーそう考えるからです。 同じように第五の定義、「生前の住みか」と「死後の住みか」を連続性としてとらえる考え方も、「生きた証としてのモニュメント」という第六の定義と、少しずつ違いがありながら、結び合うものを持っています。私たちは「生前の住まい」にその家固有のオリジナリティを創り出してきたように、「死後の住まい」にもその家族に固有のオリジナリティを持ちたいと考えることは、しごく 当然だからです。 このように第六の定義も、第一~第五の定義と密接にかかわり、「故人の生涯の証としてのモニュメント」と考えてつくられたお墓にも、実際にはさまざまな形と観念のバリエーションがあってもよいことがわかります。 しかしながら、個人(故人)の個性的すぎる家墓を建てることによって、継承問題がおこる場合があります。子供・孫(子孫)が、普遍的でない個性的(モニュメント)なお墓を良しとしない場合があるのす。このような時は、子孫がお墓を継承してくれない場合もあります。このようなことも十分考えてお墓を建てる必要があります。 |
【定義七】 お墓とは「問いそのもの」として現存するもの |
最後に、少し不器用な定義をかかげておきます。「お墓とは何か」について、ここまでお話ししたようないくつもの定義が考えられますが、しかし、これらすべてをあげてもお墓について十分に言い尽くしたとは言えない気持ちが残ってしまいます。「お墓とは何か」について明確な定義ができないなら、そんなものにはあまり価値がないと思う人もいるかもしれません。とくに最近では、生涯を独身で過ごす人が非常に増えてきました。また少子化の傾向が進み、子供がいない、子供がいても後継ぎがいないという家族もこれまでにないほど増えてきています。 これまでお墓は、世代的に継承される家族の紐帯にとって大切なものとみなされてきました。しかし、「自分の死を引き受ける」 家族のいない人たちが今後いっぱいになってくれば、「引き継がれる象徴としてのお墓」など必要ないのではと、そう思う人たちが増えてくるのも当然でしょう。 自分が死んでしまえば、この世界に関わるものは何も亡くなってしまう。自分が引き渡したいと思う「もの」、引き受けてもらいたいと思う「もの」も「相手(他者)も見当たらないなら、どうしてお墓など必要なのでしょうか。このような問いが生まれてきた大元には、日本の近代化の過程が深く関わっています。 日本の近代化のなかで、自我の解放と個人主義の確立は、戦後民主主義の重要な理念のひとつとして叫ばれてきました。戦後民法の条文が、「墓の祭祀と承継」の条項を除いて「家」の観念をすべて排除した理由も、「個人」を主体原理とした市民権の考え方によっています。個人を主体原理と考える「国民国家」の法体系からは、「個人」と「国家」のあいだに、「家」のような「世代や性別・年令による差別の規範が介在する慣習法は、しだいに認められないものとされるようになって きました。これには、市民運動やフェミニズム運動なども、大きく寄与したといえるかもしれません。 いずれにせよ、このようにして進められた近代化の過程が、「世代家族の解体」という帰結を導いたといえましょう。家制度に縛られていた時代が超えられたとき、私たちは気が付いてみると、「家」や「家族の系譜」から裸にされ、ゆくえを失った自分を見出すことになったわけです。家とか世代家族といった保護膜を失った個人では、「自己の死によっても失わない何か」をどこに確保し、だれに引き渡すことができるのでしょうか。西欧先進社会がはるか以前に体験してきたこの事態に、私たちはようやく気づき始めたのです。 これは、もしかすると、日本列島に暮らしてきた大多数の住民にとって、初めて直面しようとしている「精神の課題」といえるかもしれません。実は「お墓とは何か」という問いかけは、現代日本の大多数の住民が直面しようとしている、このような「精神の課題」と密接に関わったものなのです。このような「精神の課題」において、大多数の人たちは「お墓はいらない」というでしょうか、それとも「いや、お墓はなくてはならないもので」というでしょうか。私の回答はもちろん後者に近 いものですが、同時に前者の意見へと傾く気持ちをも包みこめるような回答であることが必要と考えてきました。 そんな回答のしかたは、たったひとつしかありません。私たちは「お墓とは何か」について、いくつもの定義と必要を言うことができるけれども、それだけではすべてを言い尽くすことができないと感じています。反対に「お墓はいらない」と言い切ってしまったときにも、正直に内感してみれば、それだけでは済まない余剰の「想い」が残るのを感じているはずです。 それならばお墓とは、「お墓とは何か」という問いかけそのもののように現に存在し立っている、あるいは「問いかけ」そのものとして、私たちが建て続けている、と考えたらどうでしょうか。第七の不器用な定義は、こうした意味をこめています。 私たち個人が「自分の死によっても失ってはならない」と感じ続けている何か。その「何か」を私たちは、これとはっきり言葉で言い当てることはできません。しかし、そのような「何か」があると、だれもが内感し続けていることも確かな真実なのではないでしょうか。このだれもが内感し続けているものこそ、「お墓とは何か」という「問いかけ」そのものとしての「お墓」にあたっています。 |
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